特集

門司工場の歴史と現在

軍需から民需への転換

神鋼金属工業の時代


生産が再開された門司工場銅管製造
  1945(昭和20年)、日本は戦争に負け終戦を迎える。神戸製鋼は1949(昭和24)年、日本を占領統治したGHQ(連合軍司令部)の方針に基づく過度経済力集中排除法によって3社に分割され、長府工場とともに神鋼金属工業という会社に属することになった。再び神戸製鋼に復帰したのは1957(昭和32)年である。「7年有余の歳月は、神鋼金属工業にとって険しい道のりの連続であったが、その期間は、軽合金伸銅事業部となった今日から見れば、それぞれの部門で業界の指導的地位を確立するに至るための、試練の一時代であった」。と、神鋼労組門司支部発刊の「軌跡」(1988年)には記されている。

秦野工場の誕生


秦野工場社屋
  その後の日本の高度成長を背景として需要が拡大したのは、冷凍・冷房に用いられている銅管製品だった。門司工場では1961(昭和36)年に小型銅管製造設備を完成させ、また翌1962年には2期工事を実施して拡大する需要に対応しようとしたが、とても門司工場だけの生産量では追いつかなくなってしまった。そこで関東地方の銅管需要も見据えて、神奈川県秦野市に新工場を設立することになったのである。秦野工場が1967(昭和42)年に操業を開始すると、門司工場の空調用銅管は徐々に秦野工場に傾斜していった。さらに、1974(昭和49)年に実施された事業部の生産集約合理化によって、門司工場全体の生産量はさらに減少することになった。

復水管事業の隆盛と低迷

空調用銅管の受注が減る中で、生産が拡大することになったのが復水管である。発電所の新設や増設、産油国向け造水装置の大型発注などによって年々増産を続け、設備も増強し業界トップの座を堅持し続けた。最盛期の1979(昭和54年)から翌1980年にかけては、月産の売上量が1800tにまで達することもあった。しかしこの好調は長く続かなかった。第2次オイルショックを境に1980年代以降需要は一転して低迷することになる。復水管の受注を見込んで、新門司へ工場を移転するという計画があったが、これは2度にわたるオイルショックと、需要の低迷により見送られることになった。
復水管売上量推移
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